メタリックルージュ

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「小説現代」連載の外伝「グラモーラの歌声」試し読み


歌声がある。
ステージ中央で光を浴びながら、一人の女性が力強く歌い上げている。別れの悲しみを、なお消えぬ愛を声に乗せる。これは運命に立ち向かおうとする人生への讃歌だ。
「サラ・フィッツジェラルドの歌を聞くのは初めてか?」
ステージから離れ、薄暗いバーカウンターで男が語りかける。相手は、ちょうど席で隣り合った新規客だ。話しかけた方は中年に差し掛かったくらいで、話しかけられた方は未だ年若く、単なる人生経験として高級クラブに足を踏み入れた類だろう。
だから慣れない酒に口もつけず、食い入るようにステージを見ていた。そんな〝ご新規さん〟に、男は常連らしく余裕を持った笑みを送った。
「そうかい、地球から来たばかりか。ようこそ火星、ようこそキャナル・シティ。そしてようこそ、クラブキャナルへ。歌姫サラの歌声をご堪能あれ」
そう言ってから、男は新規客に向けて手を差し出した。
「俺はディエゴ・シルバ。しがない音楽家さ」
シルバと名乗った男は握手しつつ、自身の高級そうなスーツを見せつける。まるで自分がクラブの上顧客とでも言うように。
「その顔、さては厄介な客に目をつけられたと思ってるのか? 結構、俺は厄介な常連さ。君みたいにサラの歌声に一喜一憂しない。彼女は常に完璧な歌を届けてくれる」
話しながらも、シルバは陶酔した視線をステージへ向ける。
歌は佳境、ドレスをまとったサラの肌に汗が光る。客席まで距離があるというのに、彼女から発せられる、濃く艶やかな蒸気が匂い立ってくるようだった。
やがて歌が終わり、薄暗い店内に、カラン、と氷が溶ける音が一つ。その直後、万雷の拍手が客席からステージへ送られた。もちろん、バーカウンターに陣取るシルバと、その隣の新規客も同じく手を打った。
「どうだい、これを見れただけでも火星まで来た甲斐があるってもんだろう。彼女は間違いなく歌姫だ」
シルバは撫でつけた自身の髪に手をやる。
しかし、不意にあげた手が、近くに来ていたウェイターにぶつかった。それだけでトレイに載っていた空のグラスは落下し、周囲に耳障りな音を散らした。
「なにしてる!」
誰よりも早く、まずシルバが怒声をあげた。彼が怒ったのはウェイターの不注意──自身のせいでもあるが──ではなく、心地よいクラブの音に不協和音が混じったことに対してだった。
「おい、お前、いいか、人間に近づく時はちゃんと声をかけろ。それが礼儀だ。お前たちネアンができる、最低限の作法だろうが」
「申し訳ありませんでした」
ウェイターが頭を下げる。その顔に刻まれた線と、人工的な皮膚の質感が、彼が人間とは違う存在だと訴えてくる。だからこそ、シルバの怒りは一層大きなものになる。
思わず手を振り上げ、このウェイターに一撃を見舞おうとした。しかし、その拳が振り下ろされることはない。
「いや、やめだ。店の備品に傷をつけるのはよくない。だが覚えておけよ、お前がこれからもミスを連発するようなら、オーナーに言って廃棄させるからな」
シルバの視線の先に、ステージを降りたばかりのサラがいた。楽屋へと戻る一瞬だったが、彼女は確かにシルバを見ていた。
「はい。注意いたします」
そう言ってから、ウェイターは他の従業員と協力して床に散らばったガラス片を掃除し始めた。シルバも席を移動し、例の新規客の反対側へと座り直した。ちょうどバーテンダーからお詫びの一杯が差し出された。
「不思議そうな顔をするじゃないか。ネアンに同情してるのか?」
ハッ、と軽薄な笑い声がある。
「地球じゃどうだか知らないが、この街でネアンにそんな態度を取るもんじゃない。先輩からの忠告だぜ。いいか、ネアンは人間と姿が似ているだけの機械だ。動物だと思ってもいい」
シルバの視線は再びステージに向けられた。今はサラの出番が終わり、ネアンのダンサーによる踊りが披露されている。
「ああ、そうだな。ステージに立ってるヤツらは、まぁ、少しは役に立つ。プログラムされた踊りを丁寧に踊るからな。オルゴールの上に乗った、クルクル踊る人形と同じだ。そういうのは愛嬌がある」
女性型のネアンが扇情的に体を曲げるたび、客席からは下卑た野次が飛ぶ。セックスの相手として興奮するのではなく、作り上げられたポルノを消費するような視線だ。
「だが、俺はアイツらを認めちゃいない。歌を唄うネアンもいるが、それは決められた楽曲を再生しているだけだ。ジュークボックス(グラモーラ)と同じだ。そこに〝真の芸術〟はない」
シルバは早くも次の一杯を飲んでいた。酒で口が滑らかになる一方、その目に暗いものが滲んでいく。
「芸術は、人間だけに許された特権だ。魂のない機械人形なんかに真似できやしない。俺は音楽家だからわかるんだ。俺は芸術を愛しているから」
そのシルバの言葉には、どこか自分に言い聞かせるような響きがある。彼の姿に思うところがあったのか、例の新規客が次の一杯を奢ると言ってきた。
「なんだアンタ、わかるじゃないか。そうだ、ここは最高の街だ。人間同士、仲良くしよう。もうすぐ、サラも休憩が終わったら、またステージに来てくれるからさ」
彼は気安い笑みを浮かべる。心の弱い部分を覆い隠すような、薄く儚いベールにも似た。



川だ、赤い川。
この星は大地も空も、全てが赤い。よってキャナル・シティを囲む巨大な運河も、あの残酷な夕日に照らされて赤く染まっている。
火星の夕焼けは、かつては青いものだったという。薄い大気に散った大量の塵が太陽からの赤い光を遮り、青い波長だけが残って大地へ届く。それが自然の色だったはず。
あるいは運河を流れる膨大な量の水も、水蒸気から生まれた雲も、一世紀前の火星には存在しなかった。
だから、こうして見える夕焼けに染まった赤い運河こそ、この星が人類のものになったことの証明だ。
「どれもこれも、偉大な来訪者サマのおかげだ」
キャナル・シティの外縁部、商業区とは真逆の位置に旧い工業区がある。この都市から見過ごされた空間にシルバの姿があった。放棄されたビルの七階、その一室、横長の窓からは運河の流れが見える。
「来訪者を神のように崇める人間もいるが、この光景を見ると気持ちもわかる」
シルバの言う来訪者とは、半世紀ほど前に人類が遭遇した外宇宙の存在だ。彼らは優れた科学技術を有しながら、人類のように争うことを好まず、惜しみなく自らの知識を提供した。
その結果、人類を取り囲む環境は一変した。火星のテラフォーミング計画が劇的に発展したことすら、来訪者から与えられた恩恵の一つに過ぎない。
「赤い川は流れ、雲は去る。未だ夜は訪れず、騒々しい光に目が焼かれることもなく」
窓辺で運河を眺めつつ、シルバは唄うように呟く。その背後から数人の足音が近づいてくるが、彼は気に留めることもない。
「相変わらず詩人だな、シルバ」
しわがれ声にシルバが振り返れば、部屋に三人の男が集まっていた。年格好はバラバラだが、共通しているのは、片手に大きなケースを携えていること。
「音楽家なんでね」
シルバの言葉に、リーダー格の男が笑った。大きな腹を揺らす姿は出来の悪い玩具のようだった。
「まだ名乗ってやがんのか? お前の才能は、こっちだろ」
男がケースを掲げる。それを合図として、左右の男たちは持ち込んだケースを地面に置き、中に入っているものを見せつけた。
ケースには細長い棒状の容器が大量に詰まっている。リーダー格がその一つをつまみ上げ、容器を包むパックを破いた。
「パナケア社の純正品ネクタルだ。注入器で九十六本ある。さばけるよな」
シルバは男たちに近づき、新品の注入器を受けとった。それを手元で軽く折ると、内部のアンプルで液体が化学反応を起こして薄緑色に発光する。
「確かに、純正品だ」
「相手は人間でもネアンでもいいぞ」
ネアンなんかに、という言葉をシルバは飲み込んだ。
このネクタルはネアンの機能維持に必要不可欠な延命用薬品で、いわば古の電池かガソリンのようなものだ。これが切れれば、ネアンの体は動かなくなり、人工脳に詰め込まれた精神も焼き切れる。
つまり、人間における死が訪れる。
「死にかけのネアンなんて、良い顧客だろう。金持ちの個人所有のヤツがいい。お気に入りのペットに死んでほしくなくて、いくらでも金をつぎ込む」
通常、ネアンのために管理局から一定数のネクタルが配給される。しかし、耐用年数を過ぎた個体ほどネクタルの摂取量が増えていく。よって企業などは古い個体を早々に廃棄して、新品のネアンを雇うことになる。
中には、思い入れのある個体に延命を望む者もいるが。
「誰に流すか決めるのは、俺だ」
実際、人間相手でも良い商売はできる。ネクタルの成分を人間が摂取すればトリップできると評判で、キャナル・シティの若者の間では手軽なドラッグとして流行している。
皮肉なものだが、ネアンのために開発された薬品は、今では人間の方に需要がある。本来なら全てのネアンに行き渡るはずの薬品は、こうして人間たちの手に落ち、莫大な利益を上げる商品として取引されている。
その尖兵となっているのが、シルバのようなネクタルの密売人だ。
ただし、シルバ自身は自らをギャングに協力する売人とは思っていない。人に取り入るのが上手く、他の密売人たちよりも業績が良かったとしても。
「こんな仕事は〝真の芸術〟じゃない」
既に夕日も落ち、ビルの一室は暗闇に包まれている。
取引を命じた男たちも立ち去り、気だるげなシルバだけが部屋に残っていた。ついさっき折ったネクタルが床に転がり、未だに淡い燐光を放っている。
ダン、と、シルバはネクタルを踏みつけた。
ただし注入器は硬く、一度だけでは破壊できなかった。シルバは再び足を上げ、今度は一層の力を入れて踏む。
「でも、いい。金は手に入る」
ガラスの割れる音が響く。
嫌いな不協和音。グラスを落とした無作法なウェイターの顔を思い浮かべながら、シルバは何度もネクタルを踏む。アンプルは粉々に砕け、中に詰め込まれていた薬品も輝きを失って散っていく。
この一本は取引時の確認用で、その処理はシルバに一任されている。自身で使うもよし、粗悪品として安く売るもよし。だから、望まぬ仕事を押し付けられた腹いせに破壊しても構わない。
崩れかけた柱にもたれながら、シルバは靴についたネクタルをこそぎ落とそうと、床を何度も蹴った。
「金があれば、俺はもっと上等な暮らしができる。生活に余裕が出れば、俺はもっと音楽を愛する時間を作れる」
これらは全て必要な儀式、ルーティンだ。
自分は〝真の芸術〟から遠ざかってなどおらず、飽くまでも目的を果たすために必要な仕事をしているのだと、そう割り切るための。
だが今日に限っては、この作業に時間をかけすぎた。
ガタ、と空き部屋の隅で何かがぶつかる音がした。シルバが即座に音の方を向けば、暗がりに人影があった。
「誰だ」
シルバの声に人影が反応する。ちょうど顔のある辺りに、亀裂のような光の筋が走った。
ネアン線だ。
人間と区別するため、ネアンの人工体に刻まれた線。タトゥーにも似ているが、あるいは効率的に体を分割するためのガイドラインにも見える。
「失礼しました」
男性の声があり、のっそりと人影が姿を現した。予想通り男性型のネアンで、ネアンであるからには誰何してきた人間から逃げるという行為はとれない。
「仕事を命じられ、こちらのビルにやってきました」
そのネアンは敵意がないことを示すように、シルバに向けて手をあげて一歩ずつ近づいてくる。暗がりから体の全てが現れた。
シルバは思わず身構える。
男性型ネアンの身長は高く、肩幅も広い。服装は作業着だから、コミュニケーション用ではなく、労働用の個体のはずだ。だからといって警戒は解けない。
「清掃か? 馬鹿言え、こんな場所に一人で来るネアンがいるか」
ネクタルの取引を知った敵対組織が送り込んだ刺客、もしくは都市警察が使っている犬だろうか。
ただし、いずれの可能性でもネアンが相手なら脅威ではない。
シルバは大股で一歩を踏み込み、まず一発、拳を男性型ネアンの顔へ命中させた。巨体のネアンは防御もせず、ただそれだけで後方へと倒れ込んだ。
「アジモフコードだったか。ネアンは人間サマに危害を加えられないし、逆らってもいけない、そう作られてる。だよな?」
シルバは倒れたネアンに馬乗りになり、その襟元を摑んで首を引き起こした。
「お前、どこの所有だ、名前はあるか?」
「申し訳ありません、邪魔するつもりはなく──」
「質問に答えろ」
新たな一撃があった。ゴムの塊を殴ったような感触。ネアンは顔をしかめ、辛そうに口を動かしていく。
「私の所有者はインフォカンパニーです。個体としての名前はありません。識別コードはBML357です」
「ベモル(フラット)の357、ブルーノート音階だ。よく見りゃ憂鬱な顔してやがる。それで、お前は何しに来た?」
「このビルは……、以前、インフォカンパニーの所有物件だったので、残された資材がないか確認しろ、と命令を受けて来ました」
シルバから舌打ちがあった。
清掃局や市警が所有しているネアンなら、後処理は簡単だ。機能を停止させ、運河に投げ込むだけでいい。単なる作業中の事故として事が済む。
しかし、会社や個人所有のネアンとなると、作業中に行方不明になった場合は捜索する義務が生じる。
「なぁ、ブルー。お前は何か見たか?」
シルバの問いかけに、男性型ネアン──ブルーは顔を引きつらせてから、覚悟するように目を瞑った。こうした仕草は人間よりも人間らしく見える。
「あなたが、ネクタルの違法取引をしているのを見ました」
「そうだな。で、お前の視覚情報はデータとして保管されちまった。決定的な証拠ってヤツだ」
これまでも、シルバは似たような状況に陥ったことがある。
取引現場を人間に見られたことはないが、人間が入らないような場所にまで来るネアンには何度か遭遇した。大体は清掃用の個体だったから、機能を停止させて運河に投げ込むか、その場で徹底的に破壊してきた。
「これから俺がしなきゃいけないのは、お前の頭を半分に割って記憶メディアを抜き取るか──いや、面倒だな、その辺の瓦礫で頭を潰すのが早いか」
ブルーは怯えた表情を作る。ひ、ひ、と息を荒くする。ネアンとして情動は制御されているが、人工生物として最低限の生存本能、その発露だ。
「怯えるなよ。人間みたいだろ。ネアンらしく、大人しくしてろ」
「誰にも言いません。メモリーの削除は許されていませんが、回収される際は必ずあなたに届けます」
「おい、待て待て、そんな曖昧な約束できるかよ。いいか、俺は記憶を消すか、って言ったんだ。言い方が悪かったな。この、か、は選択肢の提示だ」
シルバにも逡巡があった。
企業が所有するネアンを不用意に機能停止に追い込めば、少なくとも信号が途絶えた場所、つまり今いる廃ビルまで捜査の手が及ぶ。そうなれば、今度はシルバが残した取引の痕跡が露見し、密売の罪で逮捕されるかもしれない。どれだけ市警が無能だろうと、それくらいの証拠探しは子供でもできる。
だから、シルバは選択肢の二つ目を選ぶことにした。
シルバはブルーから体を離し、近くに置いてあるケースの方へ歩いていく。その中には、売りさばく予定の違法ネクタルが詰め込まれている。
「信じられないだろ、俺は今から優しい方を選ぶ」
そう言いつつ、シルバはケースから未使用のネクタルを取り出した。彼は注入器を片手に、再び仰向けに転がるブルーへと近づき、その分厚い胸板を足蹴にした。
「脱げ。下まで見せるなよ、ネアンの裸なんざ見たくもない」
ブルーは泣きそうな表情を作りながら、必死に首元から下に伸びるファスナーに手をかけた。胸筋が見えたあたりで、シルバは靴の先を使い、作業着の前を大きく開かせる。
ブルーの右胸、鎖骨から肩口にかけて金属で覆われた箇所がある。シルバは小さく屈み、その給油口に似たパーツを指で触って確かめた。全てのネアンが必ず搭載している、ネクタルの摂取ユニットだ。
「嬉しいだろ、特別だぞ」
「それは、ダメだ。いけない!」
シルバはブルーの声を無視し、手元のネクタルの封を解いた。そのままナイフを突き立てるように、注入器をブルーの肩口へと押し込んだ。
「ああっ」
ブルーの叫びがあった。
真綿に水が染み込むように、アンプル内部のネクタルが摂取ユニットからブルーの体内へと入っていく。まるで毒虫に刺されたかのような苦悶の表情があるが、ネアンの体はネクタルの効力に抗えない。この一本は、彼らにとって命そのものだ。
「良かったな、これで長生きできるぞ」
「あなたは、なんてことを」
空になった注入器を放り捨て、シルバは薄っすらと笑った。ブルーは肩口を押さえつつ、静かに半身を起こす。
「正規の取引じゃない違法ネクタルだ。お前はそれを使った。もう密告なんてできない。視覚データを公開してみろ、お前の雇い主だって罪に問われる」
「こんなことをしなくても、私は……、何も話すつもりはありませんでした」
「ネアンの約束に価値なんてない。必要なのは、お前が絶対に裏切らないようにすることだ」
余裕ぶってみせたが、シルバの心中は穏やかでない。ネクタル一本で稼げた金額を思えば、口止め料として破格なものだ。それでも必要経費と割り切っておく。
取引を見られたのは失態だったが、まだ挽回できる範囲だ。可能なら、離れた場所でブルーを破壊し、完全にデータを削除する。ただし、それは今ではない。
「じゃあな。命拾いどころか、命が増えて良かったな」
そう言い残し、シルバは未だに動けないでいるブルーに背を向けた。



ジャズのスタンダードナンバーが奏でられている。一世紀以上も愛されている名曲だ。
薄暗いクラブ。あのクラブキャナルと比べれば、客層も悪い場末の店だ。酔客は誰も音楽など聞いていないし、バーテンダーもおざなりに酒を作る。なにせ演奏しているのも芸術家ではなく、専用のチューニングが施されたネアンたちだから。
「あれは全く芸術じゃない。金を入れれば、決められた曲を流すだけの機械、ただのジュークボックスさ」
カウンター席の端で、シルバは無口なバーテンダーに絡んでいる。お決まりの芸術論を打ちつつ、酔うためだけに作られた合成酒を胃に流し込んでいる。
ここ数日、さすがにシルバも大人しく過ごした。あのネアンが、いつ自身の不法行為を告発するかわからない。その時にはキャナル・シティから離れ、いくらか身を潜めるつもりだった。
とはいえ、そろそろ仕事の時期だ。身辺に市警の影がなかったから、あのネアン、ブルーは何も言わなかったのだろう、と判断した。
シルバは酒を飲み干し、空になったグラスを振った。それに気づいたバーテンダーが近づいてくる。
「三番卓のお客様が、ジュースを奢って欲しいと」
バーテンダーが三回、カウンターを指で叩いた。
「何杯飲む」
「四杯だそうで」
シルバは弛緩した顔のまま頷く。だからといって仕事が疎かになることもない。無地のコースターを指でなぞり、そこに電子情報を付与した。中身は違法ネクタルの隠し場所を示す地図と暗号化ボックス(ロッカー)を開く電子キー、そして取引の繫ぎ役を担ったバーテンダーへのチップだ。
違法ネクタルの密売は、いつだって場末の酒場で行っていた。
シルバにとって、こうした場に〝真の芸術〟はないからだ。同じクラブであっても、歌姫サラのいるクラブキャナルでは決して取引しない。翻って、出入りする人間は資産もないが、そうやって刹那的に生きる連中の方が違法ネクタルの顧客になりやすい。
「ごちそうさん」
空になったグラスを残し、シルバは今日の取引を終えて店を出た。音楽そのものは良かったが、演奏には魂が込められていない。だから長く聞いていたいとも思えなかった。

夜のキャナル・シティは騒がしい。
毒々しい原色の光が四方を照らし、大通りを無数のタクシーと人々が行き来する。機械の駆動音と話し声、環境音楽と街頭モニターの音が混じる。建物をつなぐ大量のダクトは末期患者に繫がれたチューブのようだが、これは都市に水と電力を行き渡らせるためのものだから、そう的外れではない。
見上げれば高層ビルが立ち並び、光の筋が天頂へ向けて照射されている。下方ではホログラム繊維(ホロテックス)製の垂れ幕から映像が流れ、あるいはモニター付きの広告船が夜空を飛んでいる。流行りの商品から観光客向けのホテルまで、光で織り上げられた広告は数秒ごとに内容を変えていく。
シルバは人混みにまぎれ、ほろ酔いの足取りで目的地へ向かっていく。
誰にも聞こえない音量で、シルバは鼻歌を口ずさむ。仕事の合間に新曲でも作りたい気分だった。
この都市にあるもの全てが人工物だが、意外にもシルバはこれらを愛している。工学的な美は、人間が自然界から持ち込んだ美しさであり、いわば音楽と同じと考えているからだ。山から石を直角に切り出すことと、雨音から音律を楽譜に落とす行為は同じだとでもいうように。
「いい気分だ」
シルバが小さく呟く。ちょうど自然の象徴として、キャナル・シティに雨が降り始めていた。
周囲の人々が足早に駆けていく中、シルバは一人、悠然と雨に肩を濡らしながら歩いていく。クラブキャナルの外観が見えてきた。店の周囲にあるホロテックス看板には、サラ・フィッツジェラルドの画像が大きく映っている。
「今日はまだだ。だが」
仕事は続く。サラの歌を聞くためには、ついさっき売りさばいたネクタルの代金を回収しなくてはいけないし、その後も自宅へ帰って一張羅のスーツに着替える必要がある。
「次は会いに行くよ。我が歌姫」
シルバは広告に映るサラに微笑みかけ、そのまま路地裏へと姿を消す。雨滴とダクトから漏れる霧に身を濡らしたまま。
ダクトに覆われた狭い路地の先に、複数の暗号化ボックスがあった。観光客が荷物を預けるためのものだが、こんな場所まで入り込むような人間はいない。ボックスに隣接した料理店が、ほんの小銭稼ぎに設置したものだ。
シルバはゆったりと近づき、まずボックス上部に隠した小型カメラに触れて、中の情報を引き出した。シルバが勝手に仕掛けたそれは、この場所に来た人間を常に記録している。
「今回のお客も若いねぇ」
自身の端末にデータを飛ばし、シルバは内容を確認する。映像の浮かび上がったモニターに雨滴が落ち、淡い光が周囲に滲んでいく。
つい十数分前に、このボックスに来て違法ネクタルを回収した人物がいる。年若い男性が一人きり。彼はシルバが渡した電子キーを使ってボックスを開き、四本のネクタルを手に取った。
映像の中では、続けて若い男性が通貨トークン──指定の代金を振り込んだものだ──を同じボックスに入れていた。不審な様子はない。危険物は仕掛けられていないし、代金に不足もないようだ。
「真面目なことで」
シルバは自身専用の電子キーを使い、ここでようやくボックスを開いた。映像で見た通り、中にはネクタル四本分の代金が入ったトークンが収まっている。これで持ち逃げでもされていたら、面倒なことになっていた。もっとも、その時は上部組織の手が入り、必ず代金は回収されるが。
「そんなに良いもんかね。働いて、働いて、それで手にした賃金をつぎ込むんだろ」
違法ネクタル四本の金額は、この街で三日は豪遊できるほど。それはキャナル・シティでなら、というだけで、遠くの農業共同体なら一年は何もせずに暮らせる額だろう。
この中から上納金として中卸のギャングに七割が行き、残った分がシルバの取り分となる。以前はシルバ自身が別の売人から仕入れていたから、売上の全てが手元に入っていた。これも取り扱う数が多くなったことの弊害だ。
「で、ここの残りは、あと一本か」
シルバはボックスの別区画を開く。売れ残ったネクタルが一本、四角い暗闇の中に置かれている。
「移動させるか」
残りが一本だと、複数の注文に対応できない。少額取引のためにリスクのあるモノを使い続けるのは不適当だ。別の場所で使っている、同じような暗号化ボックスに入れる方が効率的だろう。
そう考え、シルバは売れ残った一本を懐にしまった。
これがネクタル密売の最も優れた部分だ。ただ所持しているだけでは、ネクタルはなんら違法なものではない。罪に問われるのは違法な取引だけだが、流通ルートが正規のものかどうか、それを外から判別する手立てはない。
もしも道すがら、都市警察の網に引っかかったとしても、勤務先のネアンのためにネクタルを運んでいるだけ、と言い張れる。万が一にも、そんな目には遭わないだろうが、と。
しかし、そう信じていたのはシルバ本人だけだった。
「そこの君」
ちょうど雨が止んだ頃、商業区から居住区に向かう、人通りの少ない路地をシルバは歩いていた。前方に二人組の市警がいるのが見えたが、変に避ければ目をつけられる。
だから、シルバはごく自然に彼らの横を通った。その直後にかけられた言葉だ。
「自分ですか?」 足を止め、シルバはゆったりと振り返る。相手は巡回中の警官らしかった。警備用のネアンではなく、二人ともが人間。ここは従うほかない。
「最近、物騒な事件が起きてましてね。失礼ながら、身分証を提示してくれますか?」
「ええ、どうぞ」
シルバは善良な市民として、自身のIDカードを掲げた。彼自身は真っ当にキャナル・シティに暮らす人間だから、この程度では密売が露見することもない。
「ディエゴ・シルバさん、ですね。ご職業の音楽家というのは?」
「作詞と作曲活動を少々。有名ではないですが」
「一応、持ち物も改めさせてもらっても?」
シルバは快く頷く。質問してくる警官とは別に、もう一人がシルバに近づく。センサー機器を拳銃のごとく構え、シルバが身につけているもの全てを検査していく。
「ネクタルをお持ちのようですね。どちらで入手されたものですか?」
いよいよ、例の言い訳を使う時が来た、とシルバは思った。
「知り合いのとこにいるネアンのものです。そのネアン自身に配給されたものですよ。さっきまで、その知り合いと対面で打ち合わせをしていたんだが、どうやら忘れ物をしたみたいで」
淀みなく、その場で考えたストーリーを語る。完璧に作り込むこともできたが、より自然な会話になるよう抜けも作ってある。
「お知り合いの忘れ物が、ネクタルなんですか?」
「ああ、ネアンが付き人なんです。いわゆる鞄持ち。だから、部下のネクタルも知り合いが管理してる」
「なるほど、それで届けに行く途中、と」
「そうですね。貴重なものなんでしょう? これでネアンが機能停止したら可哀想だ」
さり気なく急いでいることもニュアンスに含める。加えて利害関係者が複数人いると思わせれば、この足止めも長引かせられないだろう、という思惑もある。
だが、二人の警官はシルバを解放することなく、何事か話し合っているようだった。
「失礼ですが、そのお相手の方も教えて頂けますか?」
やがて警官の年長の方が、張り付いた笑顔で尋ねてきた。
「参ったな、早くしないと」
「教えて頂ければ、こちらで確認しますので」
シルバは困ったような、あるいは弱ったような表情を作る。ただし、内心にあるのは怒りだけだ。余計な手間と面倒事をもたらした警察ども。普段は無能なクセに、今日に限って嚙み付いてくる。そんな憎しみすら抱いた。
「さすがにね、こっちの仕事も信用で成り立ってるんで、おいそれと取引相手の情報を話せないんですよ」
そう言ってみせたが、警官が納得する様子はみられない。シルバはどう切り抜けるべきか、ひたすらに考えを巡らせる。
「なら──」
やがてシルバは思いついた言葉を吐き出していく。
「ネアンの方だけ、ここに呼んでくださいよ。誰が呼んだかとかは伏せて、市警の呼び出しってことで。さすがに悪かったからしなかったけど、これなら届ける手間も省ける」
このシルバの提案に警官たちは顔を見合わせる。先程までの笑顔を消し、訝しげな表情で再び前を向く。
「ネアンの識別コード、わかりますか?」
「BML357だ」
シルバは即座に答えた。だからだろう、険しかった警官の表情が緩んでいく。
「では、こちらで呼び出します」
とっさに出した打開策だったが、意外と効果的だったようだ。
警官たちは自身の端末を操作し、該当するネアンが実在することを確かめた。ここまで来ると、さすがにシルバを疑う気持ちも晴れてきたようだった。
一方、シルバは深く長い溜め息を吐いた。
ネアンの識別コードなど、わざわざ覚えるようなものでもない。ただ、そのコードだけはブルーノート音階と関連付けていたから、シルバもしっかりと覚えていた。
「確認が取れました。こちらへ来るようです」
その警官の言葉から十分も経たずに、シルバのいる路地に近づいてくる影があった。大柄な体に前と同じ作業着、暖色系の街灯にネアン線が浮かび上がる。
「よぉ、ブルー」
あえて明るい声を出した。それまで無表情だったブルーが、シルバを見てわずかに顔をしかめる。
「ああ」
しかし、安堵もしただろう。市警からの呼び出しだ。違法ネクタルを使用した罪に問われ、雇い主に迷惑がかかる可能性もあった。それがシルバの姿を見て、即座に違うと判断できたはずだ。
どうせまた、悪巧みに利用されるのだ。ブルーの低い声から感じ取れた小さな感情だ。
「ほらよ、ネクタルだ」
「これは──」
警官と並ぶブルーに、シルバはネクタルを押し付けた。何も言わずに受け取れ、という圧もかけておく。
「ご主人サマの忘れ物だよ」
「ああ、ありがとうございます。助かります」
シルバの意図を汲んでか、ブルーは神妙な様子でネクタルを受け取る。その姿を見て、年長の警官が間に入ってくる。
「ネアン、BML357。お前はこのシルバさんを知っているか?」
これが最後の質問だ、とシルバは思った。
「はい。私は彼を知っています」
その答えを聞いて、ようやく警官たちは緊張を解いた。疑いは晴れた。ネアンは市警からの質問に噓を吐けないからだ。シルバとブルーは間違いなく知り合いだから、この受け答えも当然。
その出会い方が、いくら悪辣なものであろうとも。
「お時間を取らせました。ご協力に感謝いたします」
そう告げ、二人組の警官は路地から去っていった。後には疲れた表情のシルバと、所在なさげにネクタルを持つブルーが残された。
「お疲れさん。会わないつもりだったが、まぁ、便利に使わせてもらった」
「いえ、それは、構いません……」
「ご主人サマには上手く伝えとけよ。ネアン絡みで問題を起こした俺が、唯一知ってたネアンのお前に助けを求めた、とでも言っとけ」
ここでシルバは背を向け、ブルーから離れていく。
「あの、このネクタル」
「やるよ。俺が今晩も安心して眠れる、その代金だ」
「いけません、受け取れない」
追いすがろうとするブルーに対し、シルバは背を向けたまま手を振って応えた。
「従えよ。今まで密告しなかった分もある。そいつを受け取ったら、これからも大人しくしてろ」
シルバは自分の行動に満足している。困っているネアンにネクタルを施したことにではなく、機転を利かせて危機を乗り越えられたことに。その高揚感が気を大きくさせた。
後は何も言わず、シルバは夜の街へと消えていった。



最初はただ、気分が良かっただけだ。
「よぉ、ブルー。また会ったな」
昼のキャナル・シティ、ブルーは商業区の路上で、無駄に高級そうな社用車を磨いていた。
「シルバさん」
「さすがネアンだ、物覚えはいいな」
ブルーの表情に変化はない。嬉しそうでもなければ、困った様子もない。ネアンらしい無感動さがある。
「一人か?」
「いえ、会社の方と来ています」
チラと横を見れば、有名なデパートメントストアがあった。インフォカンパニーは食品輸入企業であるから、おおかた営業に来ているのだろう、とシルバは考えた。
「何か、御用ですか?」
不意に尋ねられ、困ったのはシルバの方だ。別に用事などなく、ただ気分が良かったから声をかけただけだ。
「また、困りごとが──」
「おい、やめろ。何もない。水を差すな」
「失礼しました」
ブルーは頭を下げてから、再び車を磨く作業に戻った。
車に大した汚れなどないが、それでもブルーは熱心に磨いている。おそらく命令を出した社員は、ネアンを無駄に待機(アイドリング)させるつもりがなかったらしい。
その様子があまりに滑稽だったので、シルバは思わず会話を続けてしまった。
「なぁ、それ楽しいか?」
「楽しいかどうかは、判断できません。これが与えられた仕事です」
「与えられた仕事だけする、そんな生き方で満足か?」
つい我を出して質問してしまった。ネアンに問いかけることの無意味さを、シルバは理解しているつもりだったが。
「それも、判断できません。私は仕事をするために作られた民生用ネアンです。この機能だけが、存在意義です」
予想通りの返答だった。
街で見るネアンの全てがそうだ。様々な用途で用いられているが、結局のところ、人間が過ごしやすいように調整されているだけで個性も自由もない。
「ああ、そうだろうよ」
これこそ、シルバがネアンを嫌う一番の理由だ。
「お前は〝真の芸術〟から、最も遠い生き方をしてる」
その言葉はブルーではなく、自分自身へ向けた言葉だ。ブルーはもとより、道を歩く誰にも理解されないような言葉。
シルバは別れの挨拶もなく、その場から立ち去った。

その日の夜、シルバは久しぶりに自身でネクタルを試した。
自宅は運河に近い郊外の安アパートだ。だから立ち上る霧で部屋は湿気まみれ、ろくな家具も置けない。騒がしい喧嘩の声はしょっちゅうで、工事現場の音は深夜でも響く、最悪な立地。
だが、窓から見えるキャナル・シティの夜景だけは別格だ。スパンコールを散らした摩天楼が背比べしている。
「ああ、サラ。神に愛された歌声だ」
部屋にはサラ・フィッツジェラルドの歌が流れている。
彼女のパトロンの一人が、私家版として作らせた音源。クラブキャナルの常連の何人かに配られた特注品だ。わざわざ旧時代のレコードを再現したものだから、地球から骨董品の再生機器を輸入する羽目になった。
「サラ、君は生きる希望だ。誰よりも強い、生への希望がある」
シルバはネクタルの注入器を取り出すと、その先端部を布に押し当てた。中の薬品が染み込んでいく。あとはネクタルを吸った布をパッチとして、静脈のある肘の内側に貼り付けるだけ。
大型のソファ、部屋にある唯一の家具。シルバはそこに全身を預けた。片手に持った酒瓶を掲げ、こぼれるのもお構いなしに呷った。
薬物が皮膚を浸透し、ゆっくりと体内へと入っていく。肺や粘膜、血管に直接入れるより、この方が常習性もなく、一晩をかけて長く楽しめる。
「我々は、なんのために生きるんだろうか」
レコードの音がブツブツと途切れる。さすがに安物の再生機器では、あのサラの声を余さず味わうことはできない。鑑賞するのに適した環境でもない。
だが、今のシルバにサラの歌声は必要だった。
「俺は、なんのために生きてる。ネクタルを売りさばいて、この先に何がある。俺はギャングじゃない、ただの売人だ。ヤツらにとって都合のいい道具だ」
最初はシルバ自身も、一人のネクタル中毒者だった。
音楽家を名乗り、作詞と作曲に心血を注いでいた。しかし、自身に才能がないのも知っていた。行き詰まりの果てに、ネクタルでトリップすれば天啓が降りてくると信じた。
結果的に、ネクタルはシルバに何も与えなかった。
「ただ金が欲しかっただけだ。金があれば、自由に生きられると思った。好きに生きれば〝真の芸術〟に触れられると思ったんだ」
一方、持ち前の社交性で売人とやり取りをするうちに、中卸のギャングに目をつけられた。それまでの売人が姿を消したのを機に、今度はシルバが密売に手を貸すようになった。
「だが現実はどうだ。俺は今日も違法ネクタルを売った。明日もそうだ。気慰みにサラの歌を聞いて、ほんの少しばかり生きる活力を取り戻す。それで、また繰り返し」
耳障りな音が響き、不意にレコードが停止した。湿気で機器のパーツに歪みが出たのかもしれない。それでもシルバは直すために立ち上がる気力もなかった。もう一口、濃い酒を喉に流す。
サラの歌が、同じ箇所で繰り返される。生きて、生きて、と。
「その先に何がある」
ぐゎん、とスピーカーがたわむ音。シルバが衝動的に投げつけた酒瓶が当たったのだ。
「命令されて仕事をする。生きるために従うだけで、決して〝真の芸術〟には近づけない」
やがて部屋は無音に包まれる。
「俺はネアンと同じだ」
今夜だけは、工事現場の音も、人々が騒ぐ声もなかった。あるのは運河が流れる水音のみ。人類の営為が生み出す音の中で、最も静かで、最も雄大な音だったかもしれない。
シルバは、この火星の音楽に気づけなかった。



夕日に運河が赤く染まっている。
シルバは橋の上にいた。ここはキャナル・シティと外部をつなぐ唯一の道で、大運河に架かる巨大な橋だ。昼までは車と人々が行き来していたが、夕暮れともなると誰もが帰るべき場所へ帰っていった。
例のごとく、違法ネクタルを何人かに売り渡し、一日の仕事を終えたところだ。商業区から逃げるように、わざわざ自宅を素通りして来た場所だ。
「この川によ、何体もネアンを沈めたんだぜ」
シルバは通りがかった人影を確かめ、わざと聞こえるように声を出した。
「お前に言ってるんだ、ブルー」
橋を歩いてきたのはブルーだった。都市の外から、ちょうど用事を終えて帰ってきたところだ。いつもの作業着だが、背中には大きなバックパックがあった。
「シルバさん」
「信じられるか、お前を待ってたんだ。わざわざインフォカンパニーに問い合わせたら、外の施設に行かせたって言うからな」
運河から視線を平行移動させると、無人の荒野に築かれたドーム状の建築物がいくつも見えた。大半が廃棄された旧い軍事施設で、シルバ自身も何度か取引場所に使ったことがある。
「何しに行ってたんだ?」
「以前と同じです。会社と取引があった施設に行き、放置されたままの資材を回収してきました」
「そいつはご苦労さん」
会話が終わったと思ったのか、ブルーは会釈を残してシルバの背後を通り過ぎようとした。
「待てよ、俺と話をしろ」
「それは──」
と、ブルーが足を止めた。
「ご命令でしょうか」
「お前が考えろ。選んで、動け」
その言葉を受け、ブルーはいくらか時間をかけて判断しているようだった。それでも、やがてシルバの横に並ぶことを選んだ。
「十分ほどなら、お付き合いできます」
「涙が出るね。ネアンサマの貴重な時間を人間ごときのために使って頂けるとは」
シルバの皮肉に対し、ブルーは笑うこともできずに息苦しそうに顔を歪ませた。
「御用があるなら──」
「だから、ねぇって言ってんだろ」
シルバはブルーの方を向き、苛立たしげに歯を見せた。だが、その直後に何かを思いついたのか、そのまま軽薄な笑みを作った。
「いや、そうだな。取材だ、取材させろ」
「なんの、でしょうか」
「音楽の、だ。正直に言えば、俺は自分の才能に限界を感じてる。良い作品を作るのに必要なものを、大体は知っちまったからだ。他に知らないものがあるとすれば、今まで嫌っていたネアンについてだ」
それは半ば、シルバの本心だった。
自分の芸術観を突き崩すような、今までとは全く違う、何か外からの刺激が必要だ。シルバは常々、そう感じていた。最初は理由もなくブルーに話しかけただけだったが、いざ心の動きを整理してみれば簡単な理由だった。
「俺はネアンに〝真の芸術〟が理解できるとは思ってない。思ってないが、ネアンっていう存在は許してやる。人工物の一つだ。楽器の構造を深く理解したからこそ生まれる名曲だってある」
必死に言い繕ってみたが、シルバ自身、どうにも情けないことを言ったと後悔した。これでブルーの方から冷たい反応でもあれば、怒りに任せて川に叩き落としてやる、とすら思った。
しかし、ネアンは人間によくよく適応しているようだ。
「私なんかが、お手伝いできるのであれば」
ブルーは小さく微笑んだ。
ネアンが人間に向けて作る笑みなど、全てがコミュニケーション用の偽物だ。そうとわかっていても、今のシルバにとっては重要な反応だった。
「なら、最初に聞いておくが」
ブルーの分厚い胸に向けて、シルバは人差し指を突き出した。
「お前は、俺と出会った時の一件を恨んでるか? 俺にとっては必要なことだったから、今更謝るつもりもないが、取材するからには確かめておきたい」
その問いに対し、ブルーは静かに首を振った。
「いいえ。恨みや憎しみといった感情はありません。ただ、感謝もできません」
「ああ、それでいい。満点の回答だぜ、ブルー」
そう言って、シルバは手を引っ込め、新たに懐からネクタルを取り出した。
「三度目だ。もう慣れろ。これはお前の時間を買う対価だ」
ブルーは意外そうな顔をしたが、余計なことは言わずに差し出されたネクタルを手に取った。今までで最も自然な動作だった。
「いいか、重要なことだ。このネクタルがあれば、お前は長生きできる。長生きした分、停止する直前まで、お前が抱いた感情を俺に教えろ」
「わかりました。お役に立てるなら」
「取引成立だ」
シルバは自分をごまかすつもりで、ブルーの胸を軽く打った。

それから数日、シルバは事あるごとにブルーを呼び出した。
会う場所はキャナル・シティの中ならどこでも良かった。ギラついた光が眩しい繁華街の片隅、場末の中華料理屋、落書きまみれのビルの間、夕暮れの橋。シルバはブルーと話し、ネアンとしての日々を聞き取り、あるいは自身の芸術論を語って聞かせた。
「どうしてネアンが〝真の芸術〟を理解できないか、お前は考えたことはあるか?」
「いいえ、ありません」
今もまた、仕事帰りのブルーを捕まえ、シルバは夜更けの公園でベンチに座っている。ブルーの方はネアンだから、という理由で、並んで座るのを固辞していた。
「それはネアンに生殖機能がないからだ。愛玩用のはブツこそついてるがな。それでも子供はできない。補充する必要があれば、工場から完成品を買い付けるだけだ」
「そうですね」
「あるいは死っていう概念もない。ネクタルが尽きて、機能停止したら、はい、終わり。あとは回収されて、でっかい水槽にぶち込まれて、数時間で分解。誰も悼まない」
つまりだ、と楽しそうにシルバが手を掲げる。
「生きることも、死ぬこともない。だから情動がない。情動がないから〝真の芸術〟にたどり着けないんだ」
「仰る通りだと思います、シルバさん」
変わらぬ調子で答えるブルーに、シルバはつまらなそうな視線を送った。
「おいおい、本当に理解してんのか? 自分で言ってなんだが、お前は怖くないのか、自分が機能停止するのが。本当はどう思ってるんだ。ネアンの〝死〟ってヤツをよ」
「そうですね」
ブルーは自分で考えて言葉を選んでいるようだった。こうした姿は、シルバが今まで見過ごしてきたネアンの反応だった。
「機能停止するのは、怖いことだと思います。終わりが来るのは、恐ろしい。仕事を果たせなくなること、誰にも必要とされなくなることは、怖い」
「逆じゃないのか? 辛い仕事から解放されるんだぜ」
「いえ、私はそれしか知りません。存在意義が、そこにしかない」
溜め息があった。ベンチに座ったまま、シルバは夜空を見上げる。周囲のビルが凹凸の影となり、空は作りかけのジグソーパズルのように見えた。
前触れもなく、そこでシルバは小さく歌い始めた。いつもサラが歌っている曲だった。
「真似してみろよ。歌だ」
「できません。歌唱用のチューニングは──」
「いいから、やれって」
シルバが歌の続きを歌い、同じ節を何度も繰り返す。生きている、生きている。そこを真似ろという意味だ。
「ほら」
「い、き、て、いる」
平板で感情も込められていない声だ。それを聞いて、シルバは愉快そうに笑った。いくらか馬鹿にした響きがあるが、ほんの少しの喜びが感じ取れる。
「最高だぜ、ブルー。グラモーラ以下だ。ウチの壊れたスピーカーの方が、もっとマシな音を出す」
ブルーは反論もせず、ただベンチの横に立っている。
シルバは今日の取材に満足し、懐からネクタルを取り出した。子供に菓子を与えるかのように、優しさと意地悪さの混ざった笑顔で、それをブルーへ向ける。
「今日の報酬だ」
「ありがとうございます」
ブルーは恭しく頭を下げ、両手でネクタルを受け取った。お互いに慣れた行為だ。もはや必要なルーティンとなっている。
「また呼ぶ。面白い話をしろよ」
シルバは笑った。ブルーと話すようになってから、サラの歌声を聞きに行く回数は減った。しかし、それでも良いと思っている。
ネアン相手への友情はないが、道具としての愛着を持つのは構わないはずだ。



最初は頰に拳が一発、次に蹴りが脇腹へ。くずおれたところで顎に膝が飛んでくる。
シルバは背後に倒れ、配管がむき出しになった天井が目に入った。いつもの取引で使う、旧工業区の廃ビルの七階の一部屋。荒く息を吐きながら、首を動かして横長の窓を見る。切り取られた空は薄灰色。
「なぁ、シルバ」
男が覗き込んできた。大きな腹が揺れる。例の出来の悪い玩具みたいな、ネクタルの中卸を担うギャングの男。
「お前は才能があるんだぜ。良い仕事っぷりだ」
「どうも」
上から拳が振り下ろされる。一瞬だけ脳が揺れ、視界にチカチカと光が明滅する。鼻は潰れ、溢れ出た血が喉に流れ込んでくる。痛みよりも苦しさの方が強い。
「ネクタル抜いてんだろ?」
「さぁ、どうだったか」
髪を摑まれ、シルバは無理に半身を引き起こされる。鎖骨をねらった拳が鋭く突き刺さる。肺の空気が抜け、しばらく息が止まる。その間に喉に溜まった血が気管まで落ちてくる。
咳き込んだシルバに対し、男は無情にも再度の追撃を行う。シルバから反撃などできない。周囲には、この男以外に四人の仲間たちがいる。
「いいんだよ。横取りなんて思わない。お前はジャンキーだもんな。自分用に使っても、そりゃ全然問題ない。最後に支払う〝上がり〟の帳尻が合えば、何本抜いてもいい、だが今回はダメだ。まるで足りない」
シルバは血と汗を顔に滲ませながらも、思考だけは十分に冷静だった。
ここ最近、ブルーに渡してきたネクタルの数が多すぎた。自身の取り分を削り、全体で収益になる程度は残してきたつもりだったが、やはり目減りするものもあったらしい。
もしくは、ネアンごときにネクタルを無償で譲っていることが露見したか。どちらかと言えば、その可能性の方が高い。だが、それをシルバが認めれば本格的に制裁を加えられるだろう。
だから、彼らも事実を曖昧にし、暴力だけで事を済ませている。この痛みは慈悲だ、とシルバは考えた。
「おい、聞いてるのか?」
「ああ、ああ……」
痛さはない。淡々と受け入れる。切れた血管も、割れた歯も、砕かれた鼻梁も、全て無意味だ。憎しみも受け流す。なすべきことは数字を数えること。どれほどの〝上がり〟を用意すれば、この男たちを満足させられるか。
「十日以内には、必ず〝上がり〟を用意する。色もつける」
「三日だ」
「わかった、三日でやる」
シルバがそう答えると、リーダー格の男は唾を吐きかけ、ようやく手を引っ込める。これで暴力から解放された。
「音楽家ってのは得だな、シルバ。その辺の芸術家気取りなら、脅しで指でも落としてやるんだが。目や耳が潰れてもできんだろ、音楽ってヤツは」
それはシルバを馬鹿にするための捨て台詞だ。だが、どこかで音楽の本質を捉えているような一言だった。そのことがシルバのプライドを傷つけた。
教養もない男が、自分よりも〝真の芸術〟に近い場所にいる。かたや自分は金を稼ぐことしか許されず、みじめに床に転がっている。血反吐で服を汚し、乾いた血で髪も乱れて固まったまま。
そうした思いが溢れ、涙として滲みそうになる。
「じゃあな、シルバ」
そう言い残し、ギャングたちは部屋から出ていく。
シルバは体を起こす気にもなれず、冷たい床に体を預け、横長の窓から空を見た。
火星の澱んだ空を鳥が飛んでいた。どこかの富豪が持ち込んだペットが数世代をかけて火星に馴染んだものか、あるいは自然環境を再現するつもりで放たれた品種だろう。最初の一羽は、どんな気分で籠から出たのだろうか。
自由がいい。
金があれば、自由になれる。命令に従う必要もない。何も恐れず、自分の好きなことをする。
「ああ」
ただ疲れていた。
不意に訪れた眠気に、思わずシルバは目を閉じる。
その刹那、空き部屋に足音が響き、見知った顔が視界の端に現れた。
「最悪な出会い方だ」
顔に刻まれたネアン線。巨体がシルバに近づき、その体を丁寧に起こした。
「ご無事ですか?」
ブルーが廃ビルに来ていた。あの日の再現だ。上手くできている。
「助けに来た、って言ってみろよ」
「いえ、以前と同じです。仕事でビルに来ており、ずっと隠れていました。怒られたくないので正直に言います」
シルバはブルーの胸を力なく打った。余計な気遣いをしなかったのは正解だし、面倒なことになるから今の今まで見過ごしたのも正解だ。
「立てますか?」
シルバは膝に力をかけたが、いつかのタイミングで蹴られたふくらはぎが痛んだ。よろける体をブルーが支える。
「病院まで運びます」
「ああ、今日だけは頼んでやる」
ブルーは表情も変えず、震えるシルバの体を背負った。激しく揺らさないよう、ゆっくりと、かつ力強い足取りで部屋を出ていく。
「病院に行ったら、その後は付き合え」
「なんなりと」
ブルーの背の上で、シルバは小さく眠りについた。



キャナル・シティに夜が来る。
大通りを歩けば、まず目を引くのがクラブキャナルのホロテックス看板の輝き。歌姫サラの姿に誰もが足を止める。
「さぁ、ここだ」
そして、シルバもまた店の前で足を止めた。隣にいるブルーは作業着から着替え、貸し出されたネアン用の礼服を身にまとっている。
「シルバさん、お怪我の方は」
「もう問題なしだ」
鼻を覆うフェイスガードを撫でつつ、シルバは普段通りの軽薄な笑みを浮かべる。痛々しくも見えるが、仮面舞踏会に赴く紳士と言い張ってもいい。
骨は未だに軋む。とはいえ体の表面は、半日かけた外科処置で治った。治らなかった部分については、これから行く場所で癒せるだろう。
「いいか、ブルー。お前なんかが店に入れるのは特別だ。俺がこの店の常連だからだ」
「心得ています」
入店時のチェックを終え、シルバはブルーを伴ってホールまで降りてくる。いつものカウンターではなく、シルバは革張りの上等なソファに身を預ける。
「座れよ」
「隣に座るのは──」
「馬鹿か。お前みたいな図体のヤツが突っ立ってたら、後ろのお客様がステージを見れないだろうが」
シルバに促され、ブルーも申し訳なさそうにソファへ腰を下ろした。その一瞬、どこか安心したような表情を作ったが、シルバはそれを見ていなかった。
「シルバさん、どうして私なんかを誘ってくれたんですか」
その問いに答えはない。ウェイターが運んできたグラスに口をつけ、まずシルバは喉を潤した。
「面倒だったな。お前の会社に利用許可の申請まで出した。名目は知ってるか? ネアンを利用した新しい音楽表現の技術研修、だ」
「担当の方が驚かれてました。うちには音楽用のネアンはいない、ということで」
「それでいいんだよ。俺がやりたいのは、ジュークボックスに演奏させることじゃない。ジュークボックスを叩いて出る音から音楽を作りたいんだ」
しばらくシルバとブルーが会話をしていると、ホールの後方から小さな歓声が上がった。見れば、ちょうどステージに上がる直前のサラ・フィッツジェラルドが姿を現したようだった。
「あれが我らの歌姫だよ」
夜闇にも似た黒いドレスを揺らしながら、サラは客席の間を縫うように歩く。知り合いの常連に声をかけ、出番前の挨拶回りをしているようだった。
「あら、ディエゴ。少し久しぶりかしら」
やがてシルバたちのいるソファ席まで来ると、サラは魅力的な笑顔を見せてくれる。
「やぁ、サラ。今日も楽しみにしてるよ」
「ええ、ありがとう。それより顔は怪我でもしたの。大丈夫?」
「男ぶりは変わらないだろう? いやなに、不注意で階段から落ちたんだ。なぁ、そうだろ」
シルバはブルーに同意を求める。噓に付き合え、という圧がある。ブルーも慣れたもので、サラに向かって丁寧に頷いた。
「そちらは、ネアンのお客さんね。珍しいわね、あなたがネアンを連れてくるなんて」
「仕事で一緒になったんだ。音楽関係さ。だから、コイツにも〝真の芸術〟ってヤツを見せてやりたいんだ。ネアンなんかには、君の歌声の素晴らしさもわからないだろうが、あえてね」
シルバと話すサラの笑顔にほころびはない。ネアンへの敵意もなければ、同情心もない。
「そう。楽しんでいってね」
ただ、この一瞬、前に向き直って視線を外したサラの顔に、どこか冷たいものが混じった。その差異に気づいたのはブルーだけで、だからこそ何も言わなかった。
それからサラがステージに上がるまでの短い時間、シルバはずっと彼女がいかに素晴らしいのかを語った。ブルーは余計な言葉を付け加えず、簡単な相槌だけを返していた。ステージ上では数人の芸人(ヴォードヴィリアン)が寸劇を演じているが、誰も興味を持っていないようだった。
そして、いよいよショーの時間となった。
ホールの明かりが絞られ、ステージに光が集中していく。漂っていた光の粒子が中央に集まるような演出。曲のイントロが流れ始めた。焚かれたスモークの中から、しなやかな女性の影が現れる。
クラブのあちこちから歓声が上がった。もちろんシルバも、その中にいる。
「サラの歌だ」
ぽつりとシルバが呟いた直後、ステージでサラが歌い始める。
絶唱、という表現が相応しい。
自身の魂を削るように、一音節ごとに感情を込めていく。サラの肉体そのものが一つの楽器のように震え、歌声はホールへと響き渡る。
「サラは──」
最初の一曲は何も言わずに鑑賞した。次の一曲が始まるまでの短い合間、シルバは前を向いたままブルーへと話しかけた。
「ここに来るまでの経歴を明かしてない。地球で歌手をやってたのかもしれないし、仕事を求めてやってきた移民かもしれない。いずれにしろ相当な苦労があったんだろう」
「そう、なのでしょうね」
「だから彼女の歌は苦しいんだ。だが希望がある。暗闇の中だからこそ感じられる光だ。ここに来るような金持ちは気づいちゃいない。どいつもこいつも、サラの歌を本気で聞いてなんかいない」
シルバは自身のスーツの襟を直す。他の常連から舐められないように特注で仕立てたものだ。見た目こそ他の常連と同じだが、その中にあるものの差は大きい。
「俺にはわかる。俺だけがわかる。サラの歌は、俺のための歌だ」
今まで誰にも言わなかった感情だ。ブルーに伝えたのは、いずれ忘れてくれると信じていたから。
「なぁ、ブルー。聞かせてくれよ、最後の取材だ」
「最後、ですか」
「ああ、最後だ。もう十分、色々と勉強になったからな。でも、どうしても聞いておきたいことがある」
再びサラの歌が始まった。明るく力強い歌だった。愉快そうに手を叩く観客たち。
その中にあって、シルバとブルーだけが静かに言葉を交わす。
「お前らネアンは、ネクタルがないと死ぬ。人間にとっては金ってヤツが近いな。仕事をし、命令に従い、働いて、ようやく少しばかりの報酬として与えられる。明日も生きていていい、っていう権利をもらえる」
「はい、よく似ています。でも、人間は金銭がなくなっても生命活動を続けられます」
「違うんだ、ブルー。そういうのは生きてるだけだ。金がなくなって、どうしようもなくなったヤツ。そんなヤツの魂はとっくのとうに死んでる」
ステージの上で、サラは魅力的な笑顔を作り、客席に視線を送っている。誰もが彼女に夢中。シルバのくすんだ瞳にさえ、彼女の姿は輝いて映っている。
「金があれば、使い切れないくらいの金があれば、人間は自由になれるんだ。明日に怯えることもなく〝真の芸術〟に触れられるんだ」
シルバはグラスを持ち上げる。溶け始めた氷が情けなく揺れた。
「俺は、お前にネクタルをやったよな。機能停止に怯えなくてもいい。自由に生きていい、っていうお墨付きだ」
──最初は、小さな願掛けだった。
たとえば路上のゴミ箱に空き缶を放り投げて、一発で入れば今日はラッキーに過ごせる。もしくは、散歩中に赤い車を見かけるまで息を止めてられたら、明日の仕事は完璧。あるいは白線だけを歩いて自宅まで辿り着けるか、とか。
「感謝しています」
「ああ、感謝なんていい。俺は俺のためにやったんだ。だから教えてくれよ──」
子供じみた行為だ。無理かもしれない誓約を勝手に立て、成し遂げれば自分に幸福が舞い込むと信じている。
「ブルー、お前は〝真の芸術〟ってヤツがわかるか? このサラの歌が良い、って、ただそう言ってくれ」
これが、シルバの願いだ。
ブルーに十分なネクタルを与え、その寿命が尽きるのを先延ばしにした。人間で言えば、大量の金を与えたのと同じ行為だ。日々の労働から解放された時、ネアンは〝真の芸術〟に近づけるのか。
ただ、それを知りたかった。
もしネアンが〝真の芸術〟に近づけるのなら、自分も同じ結果を得られる。ネアンと同じように、生きるための不安を全て取り去れば、きっと自分も〝真の芸術〟に辿り着ける。
もう一度、やり直せる。人生は希望に満ちていて、今どれほど底にいようとも、いつかは光のある方へと向かえるのだ。
シルバは、そう信じた。
「私は──」
そう切り出したブルーの顔に、淡い光の筋が走った。
ネアン線が光る時は決まっている。ネクタルの残量が減り、新たなものを補充しなくてはいけない時だ。まだ警告の色としては薄いが、一日以上の摂取がないことを示している。
「シルバさんに謝らなくてはいけない」
その光は涙のように、ブルーの下瞼から頰にかけて刻まれた線を辿っていった。
「シルバさんから頂いたネクタルは、全て保管しています」
ブルーからの告白に、まずシルバは目を見開く。そして次に、何かを諦めたように視線を落とした。
「一本も使用していません。いつか返すつもりで、まとめて、私たちが最初に出会ったビルに隠してあります」
「そうかよ」
「申し訳ありません。私はきっと、明日にでも機能停止するでしょう。最後までシルバさんの言う〝真の芸術〟を理解できずに」
シルバはグラスを傾け、味の薄くなった酒を呷った。
「そうだな。結局、何も変わらない。変えられないんだ」
歌が聞こえる。サラの楽しげな歌が。
「俺たちの歌声は、決められたものしか流せない」
サラに向けて観客が拍手を送る。なおも歌声は高らかに響く。彼女は声に乗せて、自らの感情を自由に表現していた。
生きることは素晴らしい。人生は薔薇色、火星の色。



路地裏に一台の回収車が現れた。
朝露に濡れた冷たい路地の上に、動かなくなった物体がある。無人運転の回収車は、その物体をカメラで認識して、側面のショベルを昆虫の羽のごとく開いた。
人の形をした物体が、回収車のマニピュレーターに摑まれてショベルに載せられる。あとは滑り台のようにそれが傾けられ、物体は回収車の内部へと放り込まれた。
葬送ではなく、これはゴミの清掃だ。
「シルバ、そう心配するな」
建物の陰から現れた男が、一連の作業を見守っていたシルバに声をかけてきた。
「きちんと頭は潰した。ビルでの作業中に瓦礫が落下してきた、って具合だ。こういう危険な現場だから、向こうもネアンを使ってんだ。想定内だろ」
「ああ」
シルバは力なく答えた。声をかけてきた男は、なんとも楽しそうに腹を揺らす。
「メモリーなんざ残っちゃいねぇよ。お前の目の前で粉々にしてやっただろ?」
「そうだな、そう。何も心配なんて、しなくていいんだ」
ようやくシルバの表情に笑顔が戻ってきた。以前のものより、ずっと陰鬱で、薄暗いものだった。
「だが、シルバ。お前には悪いことをしたな。てっきりネクタルを自前で抜いてんのかと思ったが──」
「本当に、不注意だった」
「いいさ、わかるぜ。そりゃ恥ずかしくて言えねぇよな。まさか〖圏点:ネアンに盗まれた〗なんてな」
男は無遠慮にシルバの背を叩いてくる。
もはや何も考えられず、シルバはただ、さっきまで自分たちがいた廃ビルを見上げた。
七階の一室、初めて出会った場所。確かに、その部屋には古い金庫があり、これまで渡してきた分のネクタルが全て残っていた。シルバは、ネクタルを盗み出した〝犯人〟を現場に呼び出し、一方で中卸のギャングに報告して、後処理も頼んだ。
「それにしても、ネアンってのは怖いもんだな。自分が生き残るためなら、平気で人間サマのものに手を出しやがる」
「ああ、本当に欲深い」
これで良かったはずだ。ネクタルは戻ってきた。全てを売れば、彼らとの約束を果たせるだけの金が手に入る。
それが終われば、また次の密売に駆り出される。次も、その次も。
要求される〝上がり〟は増していくし、いつ市警に嗅ぎつけられるかもわからない。だが、シルバにはこの生き方しか選べない。
「お前が羨ましいよ」
シルバは路地から離れていく回収車を見送った。鼻歌に憂鬱な響きを乗せて。

雨が降っていた。
空気に混じった水分に、騒がしい広告の光が滲む。ぼやけた風景の中、シルバはクラブキャナルへ向かっていた。
希望はないが、まだ失っていないものもある。この場所でサラの歌声を聞いている時だけは、自分の人生を忘れられる気がした。
「ディエゴ、今日も来てくれたのね」
クラブに入る直前、店の入り口で車から降りてくるサラと遭遇した。小さな幸運にシルバは我知らず微笑む。
「今日は一人なのね」
「ずっと、一人さ」
複雑な笑みを浮かべるサラ。その背後から小さな人影が続いて出てくる。
「私の方は、一人じゃなくなったみたい」
黒髪の少女が、ひょこっと顔を覗かせた。
大きな目で値踏みするようにシルバを見ている。小首をかしげ、とぼけた表情を作っていた。
「今日から付き人をさせるの。ほら、自己紹介して」
ああ、と少女が気の抜けた声を出す。
「ルジュです。ルジュ・レッドスター」


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試し読みは4月16日(火)までの期間限定で公開

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